加藤明ペルーの英雄!バレーボールを通じ教えたこととは?
ペルーで英雄とされている邦人。加藤明さん
バレーのワールドカップのこの時期にアンビリで放送されるということでしらべてみたら相当な方のようですね。
既に亡くなられているのですが、どれくらいすごい方かというのがわかる葬儀の際の出来事がコチラ。
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・大統領が弔辞を寄せる。
・弔意を表す車のクラクションが一晩中鳴りやまなかった。
・新聞の一面の見出しには「ペルーが泣いている」と報じられる。
・葬儀には5万人のリマ市民が参加する。
という偉人です。
ではどういった方なのでしょう。
名前:加藤明(カトウ アキラ)
生年月日:1933年1月3日 – 1982年3月20日(没)
出身地:神奈川県小田原市
1955年に慶應義塾大学法学部を卒業し、八幡製鉄に入社。
1960年に主将をつとめ、同年の世界大会で準優勝を果たし引退。
1961年より母校慶応の監督に就任。
1964年に慶應義塾大学を全日本大学選手権で優勝へ導く。
1965年よりペルーから女子バレーボールチームの監督就任の要請を受け着任。
1967年女子世界選手権、ペルーの監督として出場するも、結果は出場国中最下位。
1968年メキシコ五輪では4位入賞を果たした。
苦悩
当時は日本女子が欧州遠征で破竹の22連勝し、東京五輪での金メダルの獲得など、日本女子バレーボールの黄金時代でした。
そんな中赴いた先では日本式の厳しい練習を課す加藤氏でしたが、ペルーの女子選手たちは、それに全くついていけません。
練習に音をあげ、逃げ出す選手が続出。新聞には、「非人道的な練習」「野蛮な国から来た野蛮な監督」との批判記事が掲載される始末。
ペルー全土を歩き回り、才能のある少女を発掘してまわります。指導はバレーだけではなく、精神面や生活に関しても行われました。
そうこうするうちに加藤さんの気持ちはチームメイトに伝わり、徐々に成果を上げていきます。
しかしながら、最後になるはずだった大会で最下位に甘んじてしまいます。
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転機
2年の任期で会社を休職して赴いたが、当時まだ所属していた八幡製鉄は1年の延長を認めます。
その結果、大躍進を遂げ初出場となるメキシコオリンピックで、主催国メキシコ、韓国、さらにアメリカを次々に撃破し、四位に入賞を勝ち取ることとなります。
3年前には罵倒された邦人が一遍英雄となった瞬間でした。
その後、監督として生涯をささげる覚悟をし会社を辞めペルーへ骨をうずめる覚悟をしたのです。
最期
しかし、ウィルス性肝炎を発症し監督を辞任。10年の長い闘病生活を送ることとなります。
10年後の1982年、女子バレー世界選手権がペルーで初めて開催されることが決定。
大喜びする中、体力も限界に迫り活躍を見ることなくなくなってしまうのです。
結果は?
ペルー選手たちは一丸となり。予選、第一ラウンドをグループ一位で通過。
予選第二ラウンドではこれまで一度も勝てず、選手たちの長年の目標であった日本チームを撃破。
勝利の瞬間、会場には紙吹雪が舞い、観客席から「アキラ・カトー」の名前が終わることなく連呼されたそうです。
その後、ペルーチームは、準決勝でアメリカを破り決勝戦進出。惜しくも、決勝で中国に敗れたものの堂々の銀メダル。それまでの国際大会で最高の成績を収めたのです。
あとは女子バレーの全盛を気づき多大な貢献をした人物ということです。
言葉も通じない国で、これほどまでの成果を上げるのもバレーボールに対する深い思いが感じられますね。
現在も「加藤明の記念碑」としてリマに残っているようです。
海を越えた向こうに活躍する邦人がいたなんて誇りに思いますね。
ご冥福をお祈りしたいです。(合掌)
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