千日デパート火災から40年。その恐るべき過去とは?
アンビリで千日デパート火災が取り上げられていました。
自分も学生時代には大阪にいたのですが、まったくそんなことがあったなんて知りませんでした。
軽く調べてみると心霊とかなぜそんなワードがと思っていましたが、なるほどと納得できるような背景がありました。
千日デパート火災概要
千日デパートは、1958年(昭和33年)12月1日開業。
屋上に1960年(昭和35年)から設置された
観覧車は大阪名物となっていた。(引用:まとめNever)
ここは、商業ビルになっていますが細かく区切られた雑居ビルだったようです。
各テナントの建物自体は午後9時に閉店しますが、その後7階のフロアのプレイタウンという今でいうスナックだけが営業をしていました。
事件が起きたのが土曜日。
当時は日曜日だけが休みで、休日前ということもあり当時の従業員の話では入店できるまで待ちが出るほど混んでいたそうです。
そこで起きた悲劇が3階が出火元の火災。
その勢いは発見から11分で煙はすでに7階まで届くほど。
煙に気づいた店員が避難を誘導するも有毒ガスが充満し店内はパニック。
一斉にエレベーターホール(黄色部分)へなだれ込むことに。
店長は非常口を開けるよう指示をするも、防犯目的(食逃)の為に鍵がかけられていました。
鍵を取りに行こうとするが既に煙に巻かれてとることができず、あけることができないまま右往左往することとなるのです。
あるものは煙から逃れようと窓から飛び降り、他の階段から逃げようとしたものも結局は煙に巻かれてなくなってしまうのです。
亡くなった方は墜死された方以外全員が煙による一酸化炭素中毒だったようですね。
火事の恐ろしさを痛感させられました。
なぜこのような事態に?
いくつもの要因が重なり合い、今回の大惨劇を生んでしまいます。
1-6階オーナー会社が管理
7階はオーナー会社の子会社が管理
このように管理が異なっており、警備室からの火災の通知が行く仕組みもなく、保安室の管轄は6階までで互いに連絡を取る仕組みがなかったようです。
また、見栄えが悪いということで、非常灯が隠されていたり先ほど述べたように、非常口が施錠されていたりと最悪のシナリオを描くお膳立てが調ってしまってい撒いた。
その後、ビル防災が大きく見直されるきっかけとなった事件となります。
いわくつき!?
なんでも千日前というのが、江戸初期に市内の整備ということで「千日墓地」と呼ばれる大規模な墓地がつくられ刑場・焼き場も併設された土地で、後々色んな噂が飛び交う地となります。
そもそもが、風水的に大坂城の裏鬼門に位置するところに集めたというのが真相と言われているようです。
当時は処刑場もあり、餓死者もあり、布令によって乞食は市内に住めず囲いをつくって閉じ込めたり弾圧されていたキリスト教徒も4代にわたり監視されていたと不穏な空気のたまり場と化します。
名前の由来も千日間供養の念仏が絶えることがなく、その供養が聞こえるお寺の前の通りということからつけられたと言います。
明治以降
明治になってから刑場は廃止され、繁華街を作ろうという構想がでますが刑場跡ということでなかなか買い手がつかなかったようです。
どうしても繁華街を作りたい政府がお金を出してまで買ってもらいます。
そこで、ようやく見世物小屋ができるのですが、目と鼻の先の道頓堀には古くからの常設小屋があり、それと比べられバッタモン扱いされることが多かったという不遇の扱いを受けていたようです。
心霊スポット!?
過去の怨念から脱し千日デパートが開業し、順風満帆に見えた矢先、今回の大火災が起きます。
その後、同ビル後地に立ったプランタン時代にはいわゆる霊とされるものが頻繁に目撃されるという噂がたくさん出ているようですね。
また、事件を知らない人も何か上から落ちてきた音を聞いて「なんだ!?」となることが度々起こるんだとか。
そういったお話がお好きな方はコチラをご覧ください。⇒ まとめNever
感想
原因については3階の電気工事をしていた業者のタバコの火の不始末といわれていますが、大掛かりな事後の調査でも裏付けられるものがなく原因不明とされているそうです。
学生時代によく遊びに行っていましたが、こんな事件があったとは思いもしませんでした。
霊的なものについては自身何とも言えないですが、通るときには心の中で念仏をとなえようと思いましたね。
亡くなった方についてはご冥福をお祈りいたします。合掌。
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